■ア |
アグスチーノ(1567?〜?) |
使節の随員。肥前国大村(現在の長崎県大村市)出身。イエズス会に入らなかったため、はっきりした生没年やその他詳しいことは不明。ドラードと同じで同宿をしていたと思われる。 |
アルベルト・アウストリア |
1580年、エスパニア国王フェリペ2世がポルトガル国王を兼ねることになった時、その代理として派遣され、ポルトガルの統治にあたった。前ドイツ皇帝マキシミリヤン2世の子で、当時の皇帝ルドルフ2世の弟。 |
アレッサンドロ・レニ |
イタリア人修道士。ローマから使節に随伴。使節たちの世話役。 |
アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ(1539〜1606) |
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■イ |
イグナシオ・デ・リマ |
サンティアゴ号船長。 |
イッポリト・ヴォリア |
イエズス会の神父。ローマから使節に同伴。 |
伊東マンショ(1569?〜1612) |
使節の正使。日向国都於郡(現在の宮崎県西都市)出身。1569年頃生まれる。日向国王伊東義祐の孫。マンショは豊後国王大友宗麟と親戚の関係だが、宗麟の姪が彼の伯父に嫁いだため、マンショ自身には大友の血は流れていない。 |
■エ |
エヴェラルド・メルクリアン |
リエージュ生まれ。第4代イエズス会総長。ヴァリニャーノを東インド巡察師に任命した。総長在任は1573年4月22日から1580年8月1日卒去の日まで。 |
エンリケ |
前ポルトガル国王。1580年1月末日薨去。 |
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■カ |
カタリーナ妃 |
第6代ブラガンサ公ドン・ジョアンの妻。7代ブラガンサ公ドン・テオドシオの母。16世紀はじめ、ポルトガル最盛期に君臨した国王ドン・マヌエルの6人目の子、ギラマンエス公ドン・ドゥアルテの娘。当時のエスパニア兼ポルトガル国王フェリペ2世とは従兄妹の関係にあった。 |
■ク |
クラウディオ・アクアヴィーヴァ |
エヴェラルド・メルクリアンのあとの第5代イエズス会総長。1567年イエズス会に入り、1581年2月9日総長に選任された。34年間在任、1615年1月31日卒去。 |
グレゴリオ13世 |
ローマ教皇。グレゴリオ暦を定める。 |
■コ |
コンスタンチーノ・ドラード(1567?〜1620) |
使節の随員。肥前国諫早(現在の長崎県諫早市)出身。当時日本に来ていた宣教師によって育てられ、教会の同宿をしていたと思われる。名前から外国人を連想させるが、ドラード自身は日本人だと記録している。帰国の途中から活版印刷術を学び、キリシタン版をこの世に送り出した。 |
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■シ |
巡察師 じゅんさつし(Padre Visitador) |
イエズス会の総長から、一定の目的のために派遣される特別職を帯びた司祭のこと。 |
ジョアン・デ・ブラガンサ |
エーヴォラ大司教の甥。 |
ジョルジェ・デ・ロヨラ(1562?〜1589) |
日本において、イエズス会に入った最初の日本人。使節に日本語の読み書きや、セミナリヨで学んでいたことを引き続き教えるために同行。一行がローマからポルトガルへ帰り、エヴォラに滞在している間に、1585年大司教ドン・テオトニオ・デ・ブラガンサから聖品を受けてパードレとなった。日本への帰国途中、マカオで病死した。 |
■セ |
セバスチャン・モライス |
アウストリア枢機卿と使節の会見の場に同席。この後、1588年2月初代の日本司教に任命された。しかし赴任の途中、1588年8月19日夜、モザンビーク付近で客死した。使節の往路におけるポルトガル滞在中には、終始いろいろな世話をし、エヴォラまで付き添って見送った。 |
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■チ |
千々石ミゲル(1569?〜1632?) |
使節の正使。肥前国千々石(現在の長崎県雲仙市千々石町)出身。1569年頃生まれる。父は千々石直員といい、大村家の血筋。ミゲルは大村純忠の甥であり、有馬晴信の従兄弟にあたる。
ミゲル顕彰碑の碑文 千々石町釜蓋城の解説板 |
■テ |
ディオゴ・デ・メスキータ |
1573年イエズス会に入り、1577年来日。使節の出発まで安土のセミナリヨの教師だった。日本語に熟達していて使節の通訳と世話役に適任だったため、使節に随伴する。1590年、一行とともに日本へ帰ったあとは主に長崎で教師の仕事をしていた。1614年、江戸幕府の大迫害令が出たあとは長崎市外の漁夫の小屋に隠れていたが、まもなく同年11月4日世を去った。 |
テオドシオ・デ・ブラガンサ(1568〜1630) |
第7代ブラガンサ公。使節と出会った当時、同じ16歳ほどであった。使節が訪ねる5年前、国王ドン・セバスチャンにしたがってアルカッセル・キビルの戦いに加わった。回教人に捕らえられたが、まもなく放免。使節往訪の前年、1583年に襲封。 |
テオトニオ・デ・ブラガンサ |
エーヴォラの大司教。1530年8月2日コインブラで、第4代ブラガンサ公ドン・ジャイムと、その第2の夫人ドナ・ジョアナ・デ・メンドンサとの間に生まれた。第7代ブラガンサ公テオドシオの叔父に当たる。 |
■ト |
ドゥアルテ・デ・ブラガンサ |
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■ナ |
中浦ジュリアン(1569?〜1633) |
使節の副使。肥前国中浦(現在の長崎県西海市西海町)出身。1569年頃生まれる。父は小佐々水軍の一族、小佐々甚五郎(中浦殿)。 |
■ヌ |
ヌーノ・ロドリゲス |
ポルトガルのエヴォラ出身。1560年イエズス会入会。インド管区代表(プロクラドール)。1574年ヴァリニャーノと共にインドへ渡来した。ヴァリニャーノの代理として、ゴアから使節に同伴。1597年〜1600年までゴアのプロヴィンシアールとなり、1604年3月1日ゴアで卒去。 |
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■ハ |
原マルチノ(1569?〜1629) |
使節の副使。肥前国波佐見(現在の長崎県波佐見町)出身。1569年頃生まれる。父は原中務といい、大村家の家臣の家系と伝えられる。
マルチノ像解説文 マルチノ解説板 |
■フ |
フェリーペ2世 |
スペイン国王。ドン・エンリケ枢機卿が薨去したあとは、ポルトガルの国王も兼ねる。 |
ブラガンサ王宮 |
ヴィラ・ヴィソーザにある。エーヴォラの大司教の実家。当主はドン・テオドシオ公爵。 |
フランシスコ・デ・ゴウヴェヤ |
ポルトガルで使節に同行。リスボン生まれ。国王ドン・ジョアン3世の近侍だった。1555年、イエズス会に入る。12年間神学と道義を講じ、その後重要な種々の任務にあたり、1638年98歳で世を去った。宗教生活は82年間に及んだ。 |
フランシスコ・デ・マスカレーニャス |
第13代インド副王。ポルトガル国王にかわり、東洋のポルトガル領地を統治する。1584年に任を解かれ、同年11月に本国へ帰った。使節一行がローマからポルトガルへ帰ったとき、1585年11月にエヴォラで再会した。 |
■ヘ |
ペドロ・デ・フォンセカ |
1548年、22歳でイエズス会に入り、後には哲学の教授として、また物事に広く通じる著者としてポルトガルのアリストテレスと称せられた。使節一行がポルトガルを訪ねるまでには、すでにコインブラのコレジヨ院長、サン・ロケ誓願修舎の長、ポルトガルのヴィジタドール、ローマのイエズス会総長補佐を務めた人だった。1599年逝去。 |
ペドロ・ラモン |
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ベント・ロペス |
イエズス会の神父。マドリッドからペルピニアン神父に代わり使節に随行。ローマ以降は使節から離れ、ローマとの連絡役になる。 |
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■ミ |
ミゲル・デ・カストロ |
使節がポルトガルを訪ねた時の、リスボンの大司教。 |
■ラ |
ラザロ・カタノ |
イタリア人修道士。ローマから使節に随伴。アレッサンドロ・レニ修道士とともに、使節たちの世話をする。 |
■ル |
ルイス・デ・グラナダ |
エスパニアのドミニコ会修道士。1504年グラナダに生まれ、1588年、使節と会った3年後にリスボンのドミニコ会修道院で逝去。雄弁な説教者であり、キリスト教教育に関する多数の著書がある。『ドチリナ・キリシタン』『黙想録(メディタシオン)』など。 |
ルイス・ペルピニアン |
イエズス会の神父。スペイン、エルチェ市(バレンシア)生まれ。リスボンに住み、サン・ロケ修道院の副院長であった。リスボンからマドリッドまで使節たちに随伴し、記録を残す。 |
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