千々石町釜蓋城の解説板


釜蓋城由来記

 室町末期乱世の頃、原城構築者有馬貴純の族臣淡路守が主命により半島西口の要地である千々石に来り領した。そして小倉城山に城を築いた。これが釜蓋城である。
 時に永禄12年であった。その後有馬晴信の代に、淡路守の子千々石大和守直員が父のあとを継いだとき、天正5年龍造寺隆信は数万の兵を以て半島に迫り一隊の部将は千々石釜蓋城に攻めよせた。・・・(中略)・・・城将大和守は頗る胆力があり、急を村民に伝えて堅く守り老臣木戸萬九郎と力戦大いに勉めたけれども衆寡敵せず、刃折れ矢尽きて自刃した。時に25歳。
以上「千々石町史」より
 日本の文化史上忘れてはならない先駆者・天正遣欧少年使節の1人 千々石清左衛門直員はこの釜蓋城主千々石大和守の忘れ形見であり天正10年(1582年)有馬家の代表として、大村、大友の両大名から選ばれた少年使節とともに万里の波涛を越えてローマ法皇に謁見し8年の歳月をかけて歴史的致命を果した。



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