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使節の旅 1585年3月



3月1日(金) イタリアに上陸

 スペインから海を渡り、リヴォルノに到着。フランチェスコ大公は、この港の港務官から使節到着の知らせを聞くと、すぐにイギリス人の騎士を派遣して、自分の滞在していたピサに使節を招いた。
 使節は、この日は休憩も兼ねてリヴォルノに留まり、灯台の塔や城塞を見物して過ごした。入城の際には、城塞にある多くの砲から祝砲があがった。


3月2日(土) ピサへ

 使節一行はピサに向かった。市外で、すでに多くの紳士や大学の人々の出迎えがあり、非常に豪華に飾られた宮殿に迎えられた。そこでは大公の侍従の接待を受けた。食後には大公の弟ピエトロ・デ・メディチの訪問があり、大聖堂に案内された。そこでは数多くの華麗な宝物や聖遺物を見て、崇拝した。その様子を見ていた人々は大変感激した。
 やがて夕方になり、大公を訪問するのに適当な時間になった。使節は日本の着物で訪問することにし、準備していると、大公から三輛の美しい馬車、護衛兵、炬火を掲げた小姓が派遣されてきた。
 使節が大公邸に到着すると、大公の兄弟二人が多くの貴族と共に豪華な服装で門まで出迎えた。大公も階段の途中まで降りてきて使節を親しく出迎えて抱擁し、「イタリアの諸侯のなかで一番はじめに使節を迎えることができて幸せだ」と話した。使節は通訳を介して「日本にいたときに、イエズス会のパードレから偉大な大公の話を聞いていたので、領地に来られたことに満足している」と答えた。
 大公はマンショの手を取り、扉を出入りするときや、その他の様々な場においても、常にマンショに上席を譲った。
 その後、使節はビアンカ大公妃のいる部屋へ案内された。妃は慈愛をもって彼らを抱擁した。
 ここで、大公はマンショを第一位の席に着かせ、そのそばに大公自身が座った。次に他の使節3人、末席にピエトロ・デ・メディチが座り、しばらくの間、日本のことや、使節の旅のことについて語った。その他にも、甘美な唱歌や合唱、対話などがなされたり、日本の着物が鑑賞されたりして、楽しい会合となった。
 使節が帰るときになり、大公は門まで見送りに出た。その後、使節のもとに人を派遣して、灰の日(この年は3月6日水曜日)まで自分のもとに留まってほしいと求めた。使節はローマへの道を急いでいたが、大公を満足させるため、この求めに応じることにした。


3月3日(日)〜5日(火)】 ピサ滞在中

 大公は使節が滞在しているあいだ、狩猟や鷹狩りなどを開催し、使節を慰めた。
 ある晩には、ビアンカ大公妃が盛大な夜宴に使節を招いた。そのとき、マンショは大公と大公妃の間に、他の3人はドン・ピエトロと一緒に座った。
 数人の女官のダンスのあと、大公妃は立ち上がり、マンショの腕を取って踊りに誘ったが、マンショは責任者のメスキータに許可をとってからダンスに臨んだ。
 このあと他の使節も女官たちと踊ったが、イタリアのダンスをほとんど知ることも練習したこともないため、ときどき誤り、調子を失うことがあった。しかし、少年であり異国人である使節が、それでもよく知っているかのように平然とダンスをこなしたので、臨席者の喝采を浴びた。


3月6日(水) 灰の水曜日

 四旬節の第一日目のこの日、聖ステファノの騎士が非常に華麗な服装で、団長である大公に服従を表す荘厳な儀式が行われた。この日の朝、使節は聖ステファノの会堂に案内され、大公と相対した、祭壇のそばの最も名誉ある席に着いた。そして、騎士たちが灰をとり、白色の長い上着を着た大公に服従を示す儀式に同席した。
 この式は使節が最も喜んだことである。
 それから、聖ステファノ聖堂の宝物や宮殿の見学に行き、その壮麗さに驚嘆した。    


3月7日(木) ピサを出発、フィレンツェに到着

 使節は多くの人に見送られてピサを出発し、フィレンツェへ。
 フィレンツェから2マイルの地まで来たとき、軍隊を率い、馬に乗った多くの紳士を伴った人物が出迎えに来ているのに出会った。
 市内ではスイス人兵士が30人、常に使節に同行した。また大公の孫にあたるヴィルジニヨ・オルシニも彼らに同行した。
 使節は多くの群集が集まるイエズス会の教会で下車し、コレジオに滞在しようとしたが、フィレンツェにいた大公の家臣が、それを許さなかった。使節は再度馬車に乗って家臣の宮殿に行き、そこで宿泊することになった。
 使節はここでも歓迎され、フィレンツェにいた貴族や教会関係者の訪問を受けた。教皇の大使や、大司教の代理の司教も彼らを訪問した。
 その後、使節がこれに応えて大司教のもとに行ったとき、大司教は十字架を前に掲げ、淡い緋色の衣服を着け、階段まで出迎えた。そして、記念として、精巧な彫刻を施した象牙の十字架を使節に手渡しで与えた。使節が去るときには宮殿の戸口まで見送った。それでも満足せず、後日、使節がいる館を訪問した。この大司教は、のちに教皇レオ11世になる人物であった。
    


【3月8日(金)〜9日(土)】 フィレンツェ滞在中

 この地に滞在していた間に、使節は宮殿・庭園・大聖堂・宝物等を見物した。円屋根に上って四方を見渡したり、またサン・ロレンソ、サンタ・マリア・デル・フィオーレの聖宝を、深い信心をもって拝観した。
 外出の際には、常に多くの身分ある人々と、30人の兵が随行した。この兵士たちは、彼らが外出するときも、居館にいるときも、その護衛にあたるために定められた兵だった。    


3月10日(日)】 宮殿見学

 朝、宮殿内の礼拝堂において、ミサに参列。その後、納戸に入っている様々な品を見せてもらう。この中でも、使節は特に大公夫人の机をほめていた。
 次にピッティ宮の見物に行き、またサン・ロレンソの図書館、諸教会、獅子の像などを見てまわった。

●ドラードの記録に基づくと思われる、宮殿の細かい様子はこちら
ドラード探検記 フィレンツェの宮殿編」    


3月11日(月) プラトリーノへ

 朝、使節は教皇の大使を訪問。門外の群集が大勢いたため、庭から邸内に入った。
 フィレンツェを出発。大公から別荘を使節に見せるようにと命令があったため、プラトリーノへ。ここは大公の館であり、休養の場所であった。大公は侍従を派遣し、領内において使節にかかる全ての経費を支出し、使節を歓待することを命じた。

●ドラードの記録に基づくと思われる、別荘の細かい様子はこちら
ドラード探検記 プラトリーノの別荘編」    


3月13日(水) フィレンツェを出発

 朝、宮殿の礼拝堂にてミサに参列する。その後ローマへ向けてフィレンツェを出発。    


3月14日(木) シエナに到着

 シエナの町から1マイル離れた郊外で、シエナの大司教と多数の兵士・騎馬隊が使節を出迎えた。使節一行はこれを見て馬から降り、大司教の馬車ですぐに知事の宮殿に向かった。
 使節はここでもイエズス会のコレジオに滞在しようとしたが、大司教の求めと、大公の命に従って、宮殿に留まることになった。    


3月15日(金) シエナにて

 使節は大聖堂に行き、奏楽で大司教に迎えられた。ここでも聖なる宝物を見て、信心を表し、民衆に感動を与えた。   


3月16日(土)

 イエズス会のパードレらのミサに参列し、彼らと昼食をとった。                                       


3月17日(日)

 ローマに向け、シエナを出発。                                        


【3月20日(水)】

 教皇が派遣した騎兵中隊やその他の貴族が出迎えにやってきた。
 使節はゆっくり進んでいたが、これは中浦ジュリアンが激しい高熱を出していたのと、夜に入ってから静かにローマに入り、誰にも見られず、誰にも迎えられないようにしようとしていたためである。また、旅の終点に着いたということで、神に感謝の祈りを捧げたいと考えていた。   


3月22日(金) ローマ到着

 使節が静かにローマに入ろうと考えていたにも関わらず、騎兵中隊がずっと離れず、絶えず歓喜の太鼓を鳴らして使節の到着を知らせた。また、多くの群衆がすでに使節の到着を待ち受けていた。
 使節はイエズス会総長アクアヴィーヴァと、修道院のパードレ一同に迎えられた。アクアヴィーヴァは使節に抱擁を与え、涙を流して喜んだ。
 それから、使節は聖堂(ジェズ教会)に案内された。聖堂内には合唱隊がおり、テ・デウム・ラウダムスを歌って使節を迎えた。聖堂の扉は閉められたが、群衆を防ぐことができず、聖堂の中には多くの人がいた。
 使節一行は祭壇の下に置かれた4つの褥の上にひざまずき、感謝の祈りを捧げた。ジュリアンは熱のために全身が震え、ひざまずくことも難しい状態だったが、退去せず、そこに座っていた。
 その後、使節は宿舎のための一室に案内された。その部屋は質素に作られていた。   


3月23日(土) 教皇に謁見

 本日は教皇との公式謁見が行われる。ヴァリニャーノや、イエズス会総長アクアヴィーヴァは、公式の謁見ではなく、教皇がただ使節に会い、諸侯の書簡を受け取るだけにしてほしいと願い出ていたが、教皇はそれを許さず、日本国王の使節として扱うことにし、公式の謁見を行うことになった。
 公式謁見の慣例として、教皇に謁見する者はローマ市外の教皇ジュリオの葡萄園の広場からローマに入ることになっていたので、使節もそこへ向かった。
 ジュリアンの体調は思わしくなく、医者が止めたが、ジュリアンは「教皇にお会いすれば病気は治る、もし死ぬなら教皇にお会いしてから喜んで死にたい」と言い、他の3人と一緒に準備していた。しかし、葡萄園からボボロ広場の門に来たとき、ついに気力がなくなり、馬上にとどまっていることが困難になったので、窓を閉じた馬車に乗せられ、別の場所につれていかれた。他の使節3人は、そのままヴァチカンに向かった。
 馬車に乗せられたジュリアンはモンシニョル・アントニオ・ピンチの案内で、教皇のもとへ到着した。教皇に謁見したジュリアンは、教皇の足に接吻し、優しく抱擁を受けた。そこでジュリアンは公式謁見を見たいと言ったが、教皇はこれを許さず、「今は健康を回復することだけ考えなさい、全快することは私の慰めになる。それから、公式謁見は、ジュリアン一人のために行おう」と言い、再びジュリアンを抱擁し、宿舎に帰らせた。
 この間、他の3人は、教皇の侍従であるイモラの司教から、教皇の名代として挨拶と礼拝を受け、ヴァチカンに向かっていた。その行列の先頭には、慣例によって武装した騎兵とスイスの長刀手、次に、華麗に装い、馬にまたがったローマや外国の貴族、謁見式場にいる枢機卿たちの従者、各国の大使館員、その後にラッパや太鼓の部隊が続き、次に正装した教皇の侍従とその従者、その他赤い服を着た宮中の職員が整列して進んだ。次に宮中の聖職者たち、その後ろに3人の使節が続いた。使節は黄金の馬具を置き、地に長く垂れた黒ビロードの馬衣を装った、非常に美しい乗用馬に乗り、馬丁がそれぞれ付き従った。先頭はマンショで、二人の大司教の間を進んだ。次にミゲルとマルチノが続き、そのそばには司教が2人ついていた。
 彼らが通過したところは、至るところに華美な装飾が施され、全ローマ市民は使節が通過する道筋に集まり、その数は非常に多く、何重にも並んでいたが、極めて静かに、この行列を眺めていた。建物の窓にも人々が集まり、彼らを歓迎し、このような遠くの地から彼らを導いた神に感謝する高貴な婦人たちの声が聞こえた。
 使節一行は日本の衣服を着用していたが、これは珍奇なものとしてよりは、他の世界から来たことの証として、敬虔さを表していた。彼らが着ていたのは柔らかく精巧な薄絹製の外衣であり、中国産の絹布で、ヨーロッパのものに比べて遥かに純白で、彼らの身辺に芳香を漂わすように見えた。その衣服は、ヨーロッパでは老人や上品な婦人が着るようなものに似ていて、様々な花や、飛び交う鳥の模様がついていた。これらの模様はアラビアの織物にあるように、所々に点在し、まるで生きているかのように着色されていた。これらの鳥や花は刺繍か、織り出されているものだった。このような上着3枚を着用していた。ヴァリニャーノはヨーロッパの服装に従い、腕を覆うことのできる袖のある下衣を使節に着せ、襟も閉じるようにさせていた。
 使節が橋にさしかかると、サンタンジェロ城から祝砲があがった。さらに近づくと、小銃も発射され、ヴァチカン宮殿に到着すると、宮殿の護衛兵が祝砲を放って迎えた。
 このとき、教皇は全ての聖会議員と共に帝王の間に入った。地位ある人々の他、多くの群衆もここに集まっていた。
 マンショとミゲルは大名の服従の書簡を手にして部屋に入ったが、教皇はこれを見て、大いに感動し、涙を流した。
 使節は教皇の足下に進み、謹んで接吻した。教皇は彼らを抱擁し、その額に接吻を与えた。これは予期していなかったことで、当惑するほどの厚遇であった。
 このことが終わってから、使節は日本語で話し、メスキータが通訳した。「使節が教皇の足下に来たのは、他でもない、キリストの代理、全教会の普遍の父として、豊後の王フランシスコ、有馬の王プロタジオ、大村の領主バルトロメオの名において、忠誠なる服従を表すためである」と言い、その書簡を贈った。教皇は感謝と親愛に満ちた言葉で、短い返答を与えた。
 その後、式部官は使節を枢機卿の座席の外に招き、少し高くしつらえた、美しく飾った場所に立たせた。教皇の書記官は日本語からイタリア語に翻訳した書簡を声高に読み上げた。
 書記官が3通の書簡を読み上げたあと、パードレ・ガスパル・ゴンザレスは使節たちに代わり、諸侯の名において服従の演説をした。これが終わると、モンシニョル・アントニオ・ポッカパヅリが、教皇の名において返答した。
 謁見式が終了すると、使節たちは聖座に導かれ、再び教皇の足に接吻し、マンショとミゲルは教皇の外套の裾を捧持し、その部屋までついていった。これは皇帝の大使がすることであった。この途中、教皇は感激に満ち、シメオンの歌を唱えるのが聞こえた。
 この日、使節は宮殿内において、教皇の兄弟の子であるサン・シストと、その姉妹の子であるグヮスタヴィラニ両枢機卿、ならびにヤコボ・ブォンコンパニ公爵とともに食事し、再び教皇のもとに招かれた。そこで長時間にわたって親しく語り合った。教皇は使節に対し、教皇とは思えない、まるで父親のような愛情をもって接した。最後に教皇は「サン・ピエトロ大聖堂に行って、改めて神に感謝しよう」と言った。
 その後、教皇は宮中の僧官を派遣し、教皇の名で使節を訪問させ、イエズス会総長には、自分に代わって、彼らの必要とするものを十分に与えることを依頼した。そして使節の食事用として、毎日最も良い魚を贈り、使節のために使いなさいと言って1000スクードを与えた。また、室内用および外出用として、金で豪華に飾ったイタリア風の服3着を与えたが、これのために彼らに贈った布地のみでも、12000スクードの価値があるものであった。衣装係は、注意深くその一部を使い、残りは返却した。
 教皇はこのときの服を使節が着ているのを見て喜び、四旬節になったら、そのときにふさわしい他の服を着させるようにと言った。   


3月25日(月)聖母マリアのお告げの祝日 

 早朝、ミネルヴァ教会への騎兵行列に参加。使節一行は日本風の衣服を身につけ、馬に乗って教皇の前を進んだ。
 教会に到着すると、マンショとミゲルは馬から降りた教皇の外套を捧持し、そのまま礼拝堂まで進んだ。この役目は通常、ドイツ大使が担うものである。
 毎年の通例どおり、本日はミサの後、ここで100人余りの孤児の乙女が、教皇の世話で結婚することになっている。ここに集まる名誉ある外国人たちは皆、教皇の慈善にならって相当の金を寄付する習わしがある。しかし使節はその風習を知らず、寄付金もその場に持ち合わせていなかった。教皇は使節の代わりに慈善金を用意し、密かに使節に渡すよう命じた。後で慈善金の集金者がやってきたとき、使節は教皇からもらった寄付金を集金者に渡したため、他の者から非難されずに済んだ。  


【3月26日(火)〜28日(木)】 ローマ滞在中

 諸国の大使たちの来訪を受ける。最初に訪ねてきたのはドイツ皇帝の大使、次にフランス国王の大使、またスペイン国王フェリペの大使もやってきた。ヴェネツィア政庁の大使や、ローマの市民会、元老院からも来訪を受けた。最年長の元老院議員は錦の礼服を身につけていた。これは公式の服装で、国王に対する以外には着用しないと言われるものである。その他にも、ローマの護民官や法官の人々、また貴顕の人々も、最も立派な出で立ちで来訪した。
 この間、使節一行は枢機卿や大使を個別に訪問した。スペインの大使を訪問したときには、大使自ら階段の下へ出迎えにきた。   


3月29日(金)

 教皇、21時の祈りのためサン・ピエトロ大聖堂へ。使節も参列。
 本日は贖宥が与えられる日である。このとき、使節は先日作られたイタリア風の服を着ていった。教皇はそれを見て喜び、復活祭のときには、もっと立派な衣服を着用して随伴せよ、と親しく声をかけた。   


3月31日(日) 薔薇の主日(四旬節第4主日)

 ヴァチカン宮殿内の小聖堂にて、黄金薔薇を祝福する儀式に参列。この儀式は、昔からの風習に従い、黄金の薔薇を聖別するものである。ここで聖別された薔薇は、尊い人もしくは著名な聖堂に与えられることになっている。



(2014.6.8 作成)
(2014.9.15 追加)


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