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使節の旅 1585年4月



4月3日(水) 教皇と面会

 教皇と内々に面会。教皇の足に接吻したあと、マンショとミゲルには座りなさいと命令があった。マルチノは立ったままでいた。
 使節一行は日本からの贈物を差し上げると、教皇は満足と歓喜を示し、それを受け取った。
 教皇は日本の地方のことをたくさん尋ね、その中には、使節が何を学んだか、教会はどんな様子かといった質問もあった。教皇はキリスト教界のみにとどまらず、俗界に対する助力もしようと示したので、使節は大いに喜んだ。また、教皇は、日本に持って帰りたいものがあったら申し出なさいと使節に言った。
 このような話をしてかなり長い時間を過ごしてから、教皇は立ち上がり、自ら先導していくつかの部屋へ一行を案内し、聖遺物を見せた。
 それから、ある美しい大きな回廊の入り口まで一行を連れて行った。そこは教皇自らが、世界の諸都市諸国の立派な図画を集めて作らせたものであった。
 その後、そこに仕えていたビャンケチ猊下に、使節一行に付き添って全てをゆっくり見させるようにと命じた。使節が見学している間、教皇は一行が戻るまで待っていて、その後もかなり長い間、使節と共に過ごした。ほとんど夜になるころ、帰る許しが出た。


4月7日(日) 受難の主日

 ミサに参列。教皇の外套を捧持する。                                  


4月9日(火) ローマの7つの聖堂

 使節はローマの7つの聖堂を訪問。この7つの聖堂はヴァチカンのサン・ピエトロ、サン・ジョヴァンニ・ラテラノ、サンタ・マリア・マッジョーレ、サンタ・クローチェ・ディ・ジェルサレメ、サン・セバスティアーノ、サン・パオロ、サン・ロレンツォである。
 教皇は行く先の聖堂で、どのようにしても厚遇するようにと指図した。そのため、この7つの聖堂にある聖遺物が全て使節に見せられ、どの聖堂においても、行列、鐘の連打、オルガン、奏楽などが行われ、教皇が来るときのような礼遇をもって迎えられた。
 また、絨毯の代わりに床には錦織物が敷き詰められ、一行がひざまずくために、同じ錦織物の敷き布団が用意された。
 使節はできるだけ人に知られずに行きたいと思っていたが、聖堂ごとに一行のために祝祭が行われ、見物人が集まってくるのを止めることはできなかった。


4月10日(水) グレゴリオ13世逝去

 夜中、教皇の容態が急変した。教皇は聖油を塗られ、ジュリアンの容態について尋ねた。すこぶる良好という返答を聞くと、喜んで神に感謝し、そのあとは言葉を発せず、11時間で亡くなった。84年の生涯だった。
 使節はローマの聖所をめぐっていたが、シスト枢機卿から派遣された使者が来て、教皇の死を知らせた。彼らは教皇の病について知らず、教皇の急死にショックを受け、すぐに馬車に乗って宿舎に戻った。ジュリアンは回復途中ということで、教皇の病のことのみが知らされ、死を告げることはしばらく延期された。
 イエズス会の総長は、使節のもとを訪れて慰めた。枢機卿一同も使節たちが悲嘆に暮れているのを察し、サッソ司教を選んで使節のもとに派遣した。サッソ司教は使節を慰め、誰が次の教皇になっても、グレゴリオ13世と同じように使節に好意を示すことを約束した。     




(2014.10.19 作成)


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