恋風旅路 >> 天正遣欧使節 >> 使節の旅 >> 1584年9月

←8月 10月→

使節の旅 1584年9月



9月5日(水) リスボン出発

 気候はまだ暑い。そんな中、使節たちは宿泊先のサン・ロケ修道院を、徒歩で発つ。1人ひとりが3・4人の神父の間に挟まれて進んだ。管区長セバスティアン・デ・モラエス神父は、コインブラのコレジオ行きを取りやめ、使節と一緒に行くことに。船でテージョ川を渡り、エヴォラ大司教の遣わした馬車に乗って、次の目的地エヴォラへ向かう。


9月7日(金) モンテモール到着

 夜、モンテモールに到着。この町はエヴォラ大司教区の城下町。使節たちの宿泊のためにすでに1軒の家が準備されていて、立派な寝室があった。今日は断食の日だったので、エヴォラ大司教のはからいで、いろいろな甘い軽食が用意されていた。使節たちがひと休みして軽食をとろうとしていると、大司教からの使いである聖職者が、他の数人と挨拶をしにやってきた。「喜んで待っているし、できる限り協力したい」という。メスキータ神父からの日本語訳でこの言葉を聞いたマンショは、エヴォラに着く前から大司教が挨拶しにきたことや、約束の援助をしてもらったことに感謝して、日本語で答えた。


9月8日(土) 聖母の祝日 エヴォラ到着

 パードレ達がミサを行うというので、使節たちは午前3時前には起きて、それを聴いた。それから朝食にカレイとサルモネット(タイのような赤い魚)、菓子類が用意されたが、少しだけいただいた。
 朝5時ごろ、モンテモールを出発。午前10時ごろエヴォラに到着。ここのコレジオの神父やイルマンたちが門まで出迎えた。使節たちは司教館の宿舎を辞退し、コレジオに泊まることに。大司教は自分の家に迎え入れることができなかったので、使節がエヴォラに滞在している間、せめて毎日の食事はもてなそうと自分の家から料理を運ばせている。
 夕方、大司教が挨拶にくる。香部屋で迎えた使節は、日本についてゆっくりと大司教と語り合った。使節たちは大司教のもとへお礼に行きたいと申し出ると、大司教は自分の輿車を貸してくれた。


9月9日(日) 〜9月13日(木) 大司教の邸宅を訪問

 使節たちが大司教邸に着くと、大司教はテントゥガル伯爵(大司教の義兄弟)、専属司祭、邸内の人々を連れて、十字架を高く捧げて使節を出迎えた。使節たちはよく整備された小聖堂に案内され、立派な聖遺物などを見せてもらった。大司教は使節が帰国の際には、この中からいくつか持って帰っていいと言ってくれた。
 その後使節たちは文庫に案内され、たくさんの地図類や立派な書類を見せてもらった。また、途中の道中のためにと、いい匂いのついた手袋一対ずつを1人1人がもらった。(当時のヨーロッパでは、手袋を贈ることは、高貴な人に対する尊敬を表す、礼儀の一形式だったとのこと。)
 それから客室へ出た。そこにはコレジオの学生たちが紅色の祭服を着て座っていて、一行のために歌を歌ってくれた。大司教はさらに奥の部屋へ使節たちを案内し、お茶を出してくれた。音楽はまだ続いていて、一行の人々を慰めた。
 コレジオの宿舎へ帰ると、もう夜になろうとしている時間だった。銀製のお皿に盛り付けられた夕食が、すでに用意してあった。

コレジオ見学
 
エヴォラに滞在している間、使節たちはコレジオの教室を訪れた。学長のパードレ・マヌエル・デ・シケイラは、イルマンのジョアン・デ・コウトに、椅子に立って何かを語るようにと言った。使節が着席すると、彼は立ち上がって、使節や日本人についての讃美の演説をしたが、それが素晴らしくあまりに長引くからと言って、中止させるために学長自ら立たなければならなかった。使節たちは感服して、このイルマンを一緒に日本へ連れて帰りたいと思った(これは実現しなかったと思われる)。

 使節たちはなるべく早くマドリードへ出発しようとしていたが、14日の祭日までここにいるようにと大司教にすすめられたので、もう少しエヴォラにとどまることにした。


9月14日(金) 聖十字架の祝日

 今日はエヴォラの大聖堂で荘厳な祭りが行われ、地方の村々からたくさんの人が集まってくる。ここの教会には聖なる十字架の木片があり、この日に人々に披露され、訪れた人には赦免状が与えられるからである。
 使節たちが大聖堂に向かうと、大司教が喜んで迎えてくれた。そこには貴族の人々も集まっていた。聖十字架木を運ぶ行列の中では、使節が貴顕の人々よりも前、大司教のすぐそばにいるようにと、大司教自ら指図した。また誰よりも前に、聖十字架木に接吻するようにと言った。
 教会の外には、日本人使節が来るというのでたくさんの人々が集まり、感激のあまり泣いていた女性もいた。ミサでは宗教裁判長が説教し、その中で使節たちのポルトガルまでの旅を賞賛し、神に感謝した。
 ミサの後、大司教に食事に招待され、彼の家の聖歌隊による合唱と、美しい音楽を聴かせてもらう。使節たちのそばのテーブルでは、12人の貧しい人々が食事をしていた。大司教はこの人々を快くもてなし、教理や神のことについて話を聞かせていた(これは大司教の慣例だそうである)。食事が済むと、使節たちは隣の大司教座教会に案内され、装飾品、ご像、聖骨箱などを見せてもらう。マンショとミゲルはここでオルガンを披露し、聴いていた人々を満足させた。
 
その後、コレジオの学生による奏楽を聴かせてもらった。彼らは皆、日本服のような長い袍(上着?)と広い袖のある紅の服を着ていたので、使節たちの目にはひときわ際立って見えた。


9月15日(土)エヴォラ出発、エストレモス到着

 使節は大司教にお礼の気持ちを表すため、着物姿を御覧にいれようと宿舎に大司教を招いた。大司教は学生の甥と司祭1人を連れてやってきた。使節の着物姿に、大司教らは大変満足したようだった。また、日本文字の本や行・草・楷書で書かれた信長の手紙を見せると、大変喜んだ。
 大司教は使節たちが書き付けたラテン語を見て、旅の短期間によく勉強したと驚いていた。また、イルマンのジョルジェ・デ・ロヨラが、紙片にラテン語の引用文を手書きしたのを見て、大司教はそれを理解しているのかどうかと尋ねた。ロヨラが理解していると答えると、そばにいた専属司祭にこれを審査するように言った。全て良しという答えを聞くと、大司教は感心した。
 使節たちは大司教に日本の品物を差し上げようとしたが、大司教は小さな品物がいくつか入った小さな小箱を1個だけ受け取った。これからいろいろな所を訪問し、贈り物をすることもあるだろうからとの気づかいだった。

 使節たちは、大司教や神父、イルマンたちに別れを告げ、エヴォラを発った。リスボンから同行していたセバスティアン・デ・モラエス神父とも、ここでお別れ。
 午後、ヴィラ・ヴィソーザから6キロのところでカタリーナ妃の輿馬車が迎えに来る。エヴォラ大司教の馬車から乗り移る時に、ジョルジェ・デ・ロヨラが転落したが、外套の一部がひかれただけで済んだ。
 この日はエストレモスという町に宿泊する。


9月16日(日) エストレモス出発、ヴィラ・ヴィソーザ到着

 ヴィラ・ヴィソーザでは、ブラガンサ公爵とカタリーナ妃がサント・アゴスチーニュの修道院で、使節一行の到着を待っていた。そこには優れた音楽と厳かなミサが準備されていた。使節は天主堂の入り口で、公爵とその弟たちに迎えられる。ブラガンサ家当主であるドン・テオドシオ・デ・ブラガンサは16歳で、使節たちと同じくらいの年令。弟はドゥアルテ14歳、アレシャンドレ10歳、フェリペ3〜4歳。彼らはそこで通訳を通して挨拶を交わしたあと、少しポルトガル語で話した。
 使節たちはそれから大礼拝堂に案内された。礼拝堂の中の片側には、喪服をまとった公爵と兄弟のために黒いビロードの背の高い椅子が並べられ、向かい側には使節たちのために、深紅色の椅子があった。その日はここでサン・ニコロの祭りが行われた。
 ミサが終わると、公爵と兄弟たちは馬に乗って帰っていった。使節たちはカタリーナ妃の輿車に乗り、ブラガンサ邸へ。公爵は家中の人と共にすでに階段の下で一行を待っていた。みんなでそろってカタリーナ妃のもとへ行くと、彼女は使節一行を強い親愛の情と喜びをもってもてなし、親しみ深くいろいろなことを尋ねた。それはこの時だけではなく、一行に会う時はいつもそうだった。

…ヴィラ・ヴィソーザ滞在中…

●使節の宿舎
 
使節たちの宿舎として準備されていた館は、ドン・ヌーノ・アルワーレス・ペレイラの物語を描いた、金と絹製の壁布(タペサリヤ)や見事な品物で飾られ、床には立派な絨毯が敷き詰められていた。用意された3つの部屋には、錦の天蓋と掛布できれいに飾られたベッドが6つあった。ベッドのうちの特に立派な2つは、使節に伴ってローマへ行くパードレにあてられていたが、彼らは別の粗末なベッドを使うことにして、良い方のベッドはマンショとマルチノが使うことになった。

●食事
 使節たちはいつも、ブラガンサ公爵と兄弟たちと一緒に食事している。マンショは毎回、公爵の上席を譲られた。食事にはいろいろな珍味が並び、使節たちの栄養になるより、感心させる役目を果たしたほど量が多かった。どの皿も壷も銀製で、随員であるドラードたちもそのような食器で食べた。皿を洗う桶まで銀製だった。食事をした部屋にはさまざまなメッキをほどこされた銀の壷や、いくつかの金の壷からなるひとそろいの食器もあった。

●ドラードの記録
 使節一行の中には、好奇心が強く、ポルトガル文をよく書く人がいた。この人はコンスタンチーノ・ドラードだと考えられている。彼はブラガンサ公爵家の台所にお邪魔して、細かい記録を残している。
 
 私は公家の厨房に入ったことがあった。聞いたところによると、この屋敷内には客用でも家人用でも、スズ製の皿は一皿もない。もしちょっとでも欠けたりすれば、価値がないとみなされて捨てられる。水を受ける桶や、周囲12・3パルモの足を洗うための大だらいすら銀製である(1パルモは手を広げた時の中指から手の付け根までの長さ)。
 また、高さ13・4段ある食器棚を見た。見事な物で、中に入っている食器もかつて想像したことがなく、見たこともない。

 この食器棚に入っている物の記録を箇条書きにすると
・テモール(冷水を入れる陶磁の壷と思われる)丈4パルモ周り6パルモ…2個
・テモール(小)丈4パルモ、丸い…2個
・塩壷(大)丈2パルモ…6個
・塩壷(小)…2個
・水さし(大)…6個
・水さし(小)…2個
・水鉢(手洗い用)周囲7・8パルモ、金製…3個
・同上、銀製…14個
・小皿 周囲3パルモ丈1パルモ以上…28個
・小盆 丈1パルモ以上…16個
・葡萄酒壷(大)高さ4パルモ…2個
・葡萄酒壷(小)高さ2パルモ…2個
・塩壷(大)高さ3パルモ…3個
・塩壷(小)…4個
・(別に大)?…3個
・フラスコ 高さ2パルモ…2個
・甚だ太き塩壷用犀型容器(サイの角でできたものらしい)長さ2パルモ丈2パルモ…1個
・フラスコ 高さ3パルモ
 さらにドラードは、「食器棚を飾るために更に多くの銀器を示したいと思うが、暇もないのでしない。思うにこの種の容器類の他にも多数の品があるだろう」と記している。この続きはブラガンサ邸内部の記録になる。
もっと見たい方はこちら→「ドラード探検記」

●カタリーナ妃の特別なお祝い
 
使節たちは着物を着てカタリーナ妃に会いに行ったことがあった。着物が気に入ったカタリーナ妃は、ひそかに急いで着物を作らせた。そしてある日の夕方、「日本人を紹介したいから自分の所に来るように」と使節を呼び出した。使節たちが行ってみると、そこにはカタリーナ妃とともに、次男のドゥアルテ公が着物を着て待っていたという(着付けはめちゃくちゃだったようだ)。


9月18日(火) ヴィラ・ヴィソーザ出発、エルヴァス到着

 使節たちは公爵に別れの挨拶に行った。公爵は会えたことを喜び、早い別れを残念がった。カタリーナ妃は使節1人ひとりに香りのついた手袋をくれた。それから国境の町エルヴァスまで公爵の馬車を準備し、旅費として200ドゥカードを渡した。

 エルヴァスに着いた時、カタリーナ妃からラバに積まれた大きなカゴが届いた。パンで揚げた紅さし、ひらめやその他の種類の魚だった。「四季の斎日(テンポラ)」であり、これから通過予定の地方にはそのようなものがないので喜んで受け取った。(四季の斎日…年間の四季に祈りと断食を行うように定められた日。ここでは聖十字架の祝日後の斎日を指す)


9月23日(日) スペイン・グアダルーペ到着

 エルヴァスから4・5レグア迂回し、グアダルーペへ。夜到着。一行は修道院内に王公のために作られた宿舎に泊まらせてもらう。夜着いたので出迎えがいなかった。

●グアダルーペの修道院について
 この修舎の偉大なことは、その地に長年滞在し、進んで勉強し、詮索した人でなければ正しくそれを伝えることができないほどと言われているグアダルーペの修道院だが、またドラードの記録と思われる部分があるので少し編集しながら引用してみたい。

 この聖母の聖舎は豪華で高く美しい天主堂を有し、また修道院として壮大で参詣者がよく訪れる。内部には太く立派な円柱と13の祭壇がある。大祭壇には丈が高く、黒ずんだ格別に神々しい聖母の像が安置されているので、この聖舎に入る者は、驚嘆して己を忘れるようになる。像の前には55台の銀の灯明(とうみょう:神仏にそなえるともしび)が絶えることなくともり、そのうちの13台は際立って大きく、1台は胴心まで金製である。この聖舎でも、ここの聖母像の名前が広まっている他の遠い地方でも、この聖母像は顕著な奇蹟を過去に行われ、今もなお行い給うのである。それについては5・6冊の本に満載されているが、その各冊は1パルモほどの厚さがあるだろう。
 天主堂の周壁と円柱は、数多くの太い鉄の鎖や輪や鏈枷で装飾されている。これはかつて回教人の残酷な禁獄や苛烈な拘束の道具であったが、囚われていた人々がこの聖母の恵みと助けとを呼び求めたのでそれから放たれたのであった。また、聖母がよみがえらせた死者や視力を与えた盲者の衣装もある。この御像はサン・グレゴリオ(教皇グレゴリオ1世。604年没)が持っていた3つのうちの1つであるということだ。しかし、この奇蹟的御所業の表象たるこれらの鎖をつるす余裕が食堂内部にも入り口にもないので、今おさめられているような鉄製の保存所ができたわけである。
 内陣(コーロス)には美しく大きな大小9台のオルガンがそなえられている。装飾品の価値や豪華なことは簡単には説明できない。多くの燭台、酒水瓶、十字架、香壷、舟形香炉、キリスト磔刑像、金属製の小さなメダルがあり、みんな銀台金メッキである。聖木曜日の祭りのための銀製の大きな墓碑1個、聖杯1個及びインドからエスパニアへ舶載された最初の金だと言われる金製の小皿(パテナ)もある。
 その地は住民700、1修道院及び同修道院所属の小教区、3つの修道庵(エルミーダ)がある。
 この聖舎にはその上500人近い人がいて、鍛冶・大工・裁縫・靴工等の職に従事する。この人数なので毎日小麦粉23ファネガ(1ファネガ=55リットル半)が消費される。1ファネガから60のパンが作られる。聖舎の120人の修道者を合わせれば620人になる。また毎年の出費と喜捨とで7万クルザードに上るという。聖舎にはニワトリ500羽、葡萄酒の大樽が34個あって、別の場所に15パルモ程の高さのマルタバン甕(インド、マルタバン地方で作られる釉薬をかけた陶器のかめ)66個の葡萄酒もあるという。前記の職人は街路で分けて配置される。そのことごとくを秩序よく静穏に管理されるのは感嘆すべきことである。


9月24日(月) グアダルーペの修道院で

 一行は天主堂へ。そこでミサを聴く。貴重な聖遺物類や素晴らしい飾り物などを見せてもらう。院の長老は多数のパードレと共に、一行に付き添って修道院、作業場などを一緒に見てまわった。その後昼食のために食堂に案内された。使節は二人ずつ長老の側に座り、一行に同伴しているパードレたちと日本人イルマン・ロヨラは2つの机の上座に座るようすすめられた。昼食後はその修舎内にあるあらゆる教務所や教務員を見ることにほとんど午後中を費やした。
 夜も長老は自宅に使節を招き、多くの修道士と共に食事をした。使節たちは告解するため、聖体秘蹟を授かるための準備に、宿舎で「鞭(ディシプリナ)」の苦行を行った。


9月25日(火) グアダルーペ出発

 告解を遂げる。有名な聖母像のある大祭壇で、イエズス会のパードレがミサを行うことを許可されたので、使節たちはそこでミサを聴く。ここで聖体を拝領することは王族と高貴な者にしか許されないことである。使節がミサを聴き聖体を拝領しているあいだ、長老は一行のためにオルガンを弾かせていた。あとになっても、使節たちはこの修道院のことや聖母像のことを好んで語り合ったという。
 出発に際し、一行は院長や他の修道者らに別れを告げに行った。修道院の人々はこの地の思い出を忘れないでほしいとの思いから、聖母像が行った数々の奇蹟が記載された本を使節に贈った。その本は美しい手写しの一冊だった。修道者は一行に朝食をふるまい、院長は途中のためにとパンやニワトリ、野菜などをくれた。


9月26日(水) タラベラ着

 トレド大司教区のこの地には、コレジヨがある。先にローマへ向かったヌーノ・ロドリゲス神父が、使節たちがタラベラを通過するという知らせをもたらしていたので、このコレジヨの院長は使節の到着を毎日心待ちにしていた。歓迎のためにコレジヨの学生たちによる演劇、踊りなどを用意していた。
 使節たちが到着すると、部屋の窓には人が群がり、町の外や通りは見物人でごったがえした。道で院長と他の神父、イルマンに出迎えられる。使節たちはコレジヨで昼食をとり、翌日の早朝出発する予定だったので、院長は準備した行事がその日にすべて行われるように決めた。


9月30日(日) 聖ジェロニモの祝日

 今日は午前中にミサがあり、午後はトレドの大聖堂を見学。建築の壮大さ、見事な祭服、金銀製の器、有名な聖歌隊、荘厳な門、貴重な聖骨箱などを見せてもらう。


(2014.6.8 修正)

←8月 10月→

恋風旅路 >> 天正遣欧使節 >> 使節の旅 >> 1584年9月