コチン→セント・ヘレナ島 船上での使節
メスキータ神父が書いたと思われる、船上での使節の記録です(文章は元の意味を損ねない範囲で、わかりやすいように適宜変えています)。
毎朝、我々は通常どおりに祈り、終わったあと諸聖人の連祷を唱え、その後我々聖職者のみが聖職者の祈りに数時間を費やした。その間、使節はラテン語を学習した。学習が終わると、彼らは4人とも聖母の連祷やその他の祈りを唱えたり、我等とともに祈りを繰り返し唱えたりした。
使節たちには、毎日3時間の娯楽の時間があり、その他の最も多くの時間を日本語の読み書きに、残りの時間をラテン語の学習に費やした。 |
ラテン語と日本語、そしてほとんど祈り…しかし、娯楽の時間もきちんと設けられていたようですね。この文章だけ見ると日本語の読み書き学習が一番多かったのでしょうか。
「諸聖人の連祷」は、現代でも「諸聖人の連願」として、復活祭で歌われています。先唱の人がいて、その人から祈りを唱え始め、その他の人はあとに続いてみんなで祈りを唱えます。
次のような感じです。
先唱:主よ、あわれみたまえ
会衆:主よ、あわれみたまえ
先唱:キリスト、あわれみたまえ
会衆:キリスト、あわれみたまえ
…中略…
先唱:神の母 聖マリア
会衆:我らのために祈りたまえ
先唱:聖ミカエル
会衆:我らのために祈りたまえ
…以下略…
典礼司教委員会監修『典礼聖歌』第44版(あかし書房、2008年)から引用
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このあとにいろんな聖人に呼びかけ、「我らのために祈りたまえ」が続き、最後は「キリスト我らの祈りを聞き入れたまえ」で終わります(間にいろいろあるのですが、長くて細かいので省略します(^^;))。
「聖母の連祷」は、現代の一般信者としてはあまり使わないように思うのですが、当時は「諸聖人の連祷」と並んで重要視されていたとのこと。先唱が「キリストの御母」「明けの星」など、いろいろな呼び方で聖母マリアに呼びかけ、会衆が「我らのために祈りたまえ」と続けるという形式になっていました。
もちろん、当時は全てラテン語で行われていたと考えられます。キリシタン版には祈りの日本語訳が載っていたりしますが、たぶん使節の時代はまだきちんと訳されてなかったのではないかと…マルチノなんかは自分がキリシタン版の訳者になってますもんね。
さて、記録の続きです。
| 彼らが好んでいることのひとつとして、私がマタイによる福音書を読むのを聴くことが挙げられる。そうして知った好みの節を、彼らは暗記した。マタイによる福音書にある教訓は非常に彼らの心に叶ったと見えて、彼らは互いにそれを絶えず談じ合っていた。使節はマタイによる福音書のなかでも第5章から第7章をとくに好んでいた。それは、不動の教えが含まれているからである。また、彼らはこの福音書をぜひとも読まねばならないと言っているが、それは一の労をもって肝要な二つの得を収めたからである。 |
松田先生の『天正遣欧使節』の中にも出てくるお話です。使節が好んでいたという「マタイによる福音書」5章〜7章は有名な「山上の説教」の部分ですね。「明日のことまで思い悩むな」という部分(6章34節)は、松田先生が特に挙げられている箇所ですが、先案じしやすい性格の私にも助けになっています。
記録の最後の一節「一の労をもって肝要な二つの得を収めた」は、何を言っているのかよくわからず…この部分を読むと一挙両得だと言っているようですが、キリスト教の教えの他に何かがわかるのだろうか?
それにしても、聖書について話し合う使節…なんだか微笑ましいです。そして、メスキータ先生に読んでもらってたんだ(笑)
さて、記録の続きです。
| 彼らはわずかの時間の学習でも、ラテン語には著しい進歩がみられた。マルチノはラテン語で演説文の作成に取りかかり、あとでイエズス会総長の前でそれを発表しようと暗記した。マンショはそれより短い演説文を作ったが、その後エヴォラでイエズス会の一パードレが彼のために数語を訂正した。彼には優れた記憶力と技巧があったので、教皇様の前でそれを暗誦しようとしてほとんど完全に習い覚えた。他の3人は各自教皇様への讃辞を作った。 |
ラテン語学習の話になりました。「著しい進歩」は言い過ぎな気もするが…マルチノはすでに才能発揮していたようです。
ヨーロッパに着いてからの話も含まれてますが、マンショがエヴォラで演説文の指導を受けていたというのも(細かすぎてどうでもいいかもしれないけど)なんだか新鮮な感じです。
| 一行はこの航海中、何の病も患わなかった。四旬節には毎週3日大斎し、また別に懺悔(ペニテンシヤ)もしようとしたが、パードレ・ヌーノ・ロドリゲスはそれを許さなかった。我々の持っていた食料から病人や貧困者に惜しみなく分け与えられた。 |
四旬節(しじゅんせつ)は復活祭前の期間のことで、細かい日付けは毎年変わりますが、だいたい2月〜4月の中の約40日間にあたります。キリストの復活を待っている時期で、受難を思う季節なので食事を控えめにして、静かにすごします。「大斎」は、三食の場合、一食だけしっかりとって、他の二食は半分以下にします。現代だと四旬節の最初の「灰の水曜日」は大斎ということを聞きましたが、使節は毎週3日…現代だとなかなかできそうにありません(^^;)
それ以外にも「懺悔(ペニテンシヤ)」をしようとして司祭が止めてますが、「懺悔」が告解かと思ったので「なんで止めるんだろう?」と疑問でしたが、ここでの「ペニテンシヤ」は、おそらく「苦行」の意味ではないかと思います。復活祭前の告解はむしろ推奨されてたような。
次は、使節の余暇についての記録です。
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広い甲板の上で互いに語り合い、音楽を奏し、エンシャドレス(将棋に似た遊び)をして楽しむことと、船が進んでいるときにタコ・鰹・鯛を釣ることは彼らの心に適った慰めであった。
ある朝、爽快な風を受けて帆走していた間に、彼らが用意していた糸で一時間しないうちに大きな鰹を12尾獲った。その各1尾の重さは15人ないし20人分に相当したので、ついに釣り針を壊してしまった。また魚だけでなく、鳥も糸と針で捕まえた。
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釣りはよくしていたようで、あちこちに出てきます。あなたたち、釣りしかしてないんじゃないかっていうくらい。なんかおとなしげなイメージがある使節ですが、鳥まで捕まえてたみたいですね。普通の少年ですね(^^)
(2014.02.23 作成)
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