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使節の旅 1583年3月



【3月19日(火)】 凪の船上で

 船は出帆後およそ2ヶ月くらいは順調に進んでいたが、突然風が凪いでしまい、赤道の近くで進むことも戻ることもできなくなってしまった。暑さは非常に厳しく、船中には衰弱、失神、呼吸困難に陥る人が増え、また危険な病気にかかる人も出てきた。はじめにメスキータ神父が激しい病を患った。次にマンショもまた熱病と疫痢にかかった。ヴァリニャーノはマンショのそばを離れず、介抱にあたり、絶えず祈り続けていた。


3月24日(日)】 

 他の乗客も病み、船はほとんど病院のようになってきた。無風状態は毎日続き、水も足りなくなってきた。船長は自ら水の管理をし、1日2回、わずかな水の配給をしてまわった。それで足りるはずもなく、多くの人々は喉の渇きに耐えきれず、海水を飲んで身体が腫れ上がり、亡くなる人も出た。
 そんな中、ようやく風が起こり、船が進み始めた。


【3月27日(水)】 インドに上陸

 船はペスケリヤとセイロンの間の真珠水道に入った。それから航海士はコモリン岬を過ぎたと思い、針路を北に向け、インドの西海岸にあるトラヴァンコールに沿って走っているつもりでいた。しかし右手に陸が見えないので、変に思ったヴァリニャーノは距離の計算を間違えているのではないかと言ったが、航海士は緯度を測っておかしくないと主張した。ヴァリニャーノは、緯度で決めるのは間違いで、ペスケリヤとトラヴァンコールはコモリン岬の両側にあるから同じ緯度にあるのだと説明したが、航海士は聞く耳を持たなかった。そのため、ヴァリニャーノは船長に勧めて海水の深さを測らせてみた。すると、海底まで充分な深さがなく、どんどん浅くなっていることが判明したため、船長は帆を降ろすことを命じた。このまま前進していたら、難破船が絶えないことで有名なペスケリヤ水道のシラオの砂州にぶつかるところであった。
 船はこれを避け、同じ海岸にあるトゥリシャンドゥルが見えるところに停泊した。同地駐在所のパードレからは、水や食料品が贈られてきた。しかし、海上は危険なため、使節一行はトゥリシャンドゥルに渡り、ここからマナパルに進むことになった。協議の結果、海路よりも陸路でコチンに行く方がまだ安全だということで、使節は陸路でコチンに向かうことになった。しかし、メスキータはまだ病気の回復期にあり、この陸路の旅を乗り切る体力がないと思われたため、ツナクリの住院に残ることになった。


3月31日(日) 復活祭を祝う

 使節一行はマナパルにて復活祭を祝った。     




(2014.1.19 作成)


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