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使節の旅 1582年2月



2月1日(木)天正遣欧使節の計画

 遣欧使節の計画は、出航間際にヴァリニャーノによって発案され、進められることに。メンバーは、イエズス会の神学校である有馬セミナリヨの生徒の中から選ばれた。正使はキリシタン大名大友宗鱗の名代として伊東マンショ、大村純忠・有馬晴信の名代として千々石ミゲルの2人。副使には大村領の領主の子である原マルチノと中浦ジュリアンが選ばれた。ヴァリニャーノは当初、安土のセミナリヨにいた伊東ジェロニモ(祐勝:マンショの従兄弟)を正使に考えていたが、長崎に呼び寄せる時間がないためマンショが選ばれた。4人はいずれも13才前後であったと考えられている。
 他には使節の随員として、コンスタンチーノ・ドラード、アグスチーノという2人の少年が選ばれた。ドラードは教会の同宿、アグスチーノは定かではないが、こちらもドラードと同じく同宿をしていたと思われる。世話役としてポルトガル人修道士のメスキータ、旅のあいだの日本語教師としてジョルジェ・デ・ロヨラ日本人修道士がメンバーに加えられている。
 使節派遣の目的として、ヴァリニャーノは
・ローマ教皇やヨーロッパの国王たちに日本人を知らしめ、日本での布教のための援助を乞うこと
・日本人にヨーロッパでのキリスト教世界の偉大さを見せ、後日、日本でそのことを証言させ、キリスト教徒を増やすこと
を掲げている。


2月6日(火)使節の親たち

 使節に選ばれたことを聞き、親たちは息子に会いにきた。このとき両親が健在だったのは原マルチノだけで、他の3人は母のみとなっている。彼らが息子の渡欧を心から喜んだかは、今となってはわからない。千々石ミゲルの母は、息子の身を案じ、渡欧を強く反対して病気になってしまったという。
 ヴァリニャーノは使節の親たちを説得し、4人とも無事に連れて帰ることを約束した。


2月20日(火) 日本を出航

 使節はポルトガルの紳士イグナシオ・デ・リマの船に乗り込み、長崎から出航した。リマは使節が乗ることを非常に光栄なこととし、自分の部屋を使節に与え、自分の食料までも使節に提供したいと思っていた。

 船は北風を船尾に受け、はじめの2日は順調に進んだ。しかし、風は次第に強くなり、ついに暴風となった。船は大きく揺れ、海上を航行しているのではなく、宙を飛行しているように感じられた。そのため身体を手すりや他の固定してある木に縛り付ける必要があった。また食事もとることができず、めまいを感じ、海の上にいることに慣れている水夫まで苦しんだ。
 しかしヴァリニャーノはほとんど酔うことがなく、使節たちを励ましていた。使節の中でもミゲルだけは他の使節よりも元気で、彼らをからかっていた。
 このような苦難は五昼夜続き、その間一瞬も目を閉じて眠ることができなかった。


2月22日(木)】 暴風に遭遇する

 船は北風を船尾に受け、はじめの2日は順調に進んだ。しかし、風は次第に強くなり、ついに暴風となった。船は大きく揺れ、海上を航行しているのではなく、宙を飛行しているように感じられた。そのため身体を手すりや他の固定してある木に縛り付ける必要があった。また食事もとることができず、めまいを感じ、海の上にいることに慣れている水夫まで苦しんだ。
 しかし、ヴァリニャーノはほとんど酔うことがなく、使節たちを励ましていた。その中でもミゲルだけは他の使節よりも元気で、彼らをからかっていた。
 このような苦難は五昼夜続き、その間一瞬も目を閉じて眠ることができなかった。



(2009.8.20 修正)
(2014.1.13 追加)


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