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天正遣欧使節とは


 天正少年使節ともいう。
 安土桃山時代、九州のキリシタン大名である大友宗麟、有馬晴信、大村純忠がイエズス会の巡察師ヴァリニャーノのすすめで、少年たちをローマに派遣した。正使に大友宗麟の名代として伊東マンショ、有馬晴信・大村純忠の名代として千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアン、原マルチノが選ばれた。他に付き添いとしてコンスタンチーノ・ドラード、アグスチーノという日本人少年がいる。
 彼らは世話役の修道士(のちに神父になる)メスキータ、先生の代わりである日本人修道士ロヨラと一緒に1582年2月20日に長崎から出航。大嵐や凪を乗り越え、2年かけて海を渡り、1584年ポルトガルのリスボンに到着する。
 ヨーロッパではポルトガル・スペイン・イタリアを歴訪し、各地で大歓迎される。ヨーロッパの文化を学び、たくさんのお土産をもらって、1586年リスボンから出航。
 使節たちが旅に出ている間、日本は大きく変わっていた。秀吉の出した「伴天連追放令」で許可なく日本に入れないため、マカオで2年待つ。ようやく1590年7月21日、なつかしの故郷長崎に到着した。
 帰国後の使節たちには、それぞれ違った運命が待っていた。
 伊東マンショは司祭となるも、長崎のコレジオで病死。
 千々石ミゲルは主君の大村喜前とともに棄教。千々石清左衛門と名乗り、家庭を持ったと伝えられる。
 原マルチノも司祭となるがマカオに追放され、同地で昇天。
 コンスタンチーノ・ドラードはマルチノと一緒にマカオへ追放されるも司祭となり、晩年はセミナリオの院長に就任。同地で亡くなる。
 中浦ジュリアンはキリシタン迫害が厳しくなる日本に潜伏。キリシタンたちの面倒を見ていたがついに捕らえられ、長崎で刑を受け殉教。
 アグスチーノは他の5人と違い、イエズス会に入らなかったため、記録はもちろん噂のようなものも残っていない。
 彼らの業績は印刷・音楽など広い範囲にわたり、今日の私たちへとつながっている。

(2014.8.16 修正)


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