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使節あれこれ その4-2
マカオの聖ポール天主堂

 前壁のみ残る聖ポール天主堂跡。マカオの観光地として有名になってますが、我らが天正遣欧使節とはどのような関係があるのか見てみましょう。

現在の聖ポール天主堂。いろいろなところに書いてありますが、正式名称は「MATER DEI(神の母、聖母)」教会ですね
前壁裏側。解説板によると、この展望台は当時の聖歌台(聖歌隊が歌うところと思われる)と同じ高さに作ってあるとのこと。登ってみたかったなあ…

 当時聖堂だった場所には、あちこちに土台や壁の跡が残っており、推定復元図と一緒に簡単な説明がありました。

こんな感じの解説板があちこちにあり、実際の遺跡と見比べられるようになっている

簡単にトレースしてみました。

1. 聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂
2. イエスの礼拝堂
3. 聖霊の祭壇と思われる場所
4. 中央祭壇
5. 聖ミカエル祭壇と思われる場所
6. 一万一千の貞女礼拝堂
7. 側廊
8. 前壁

「○」部分は柱があったと思われる場所

 礼拝堂が3つも付属してたんですね〜。結構大きな聖堂だったようです。
 次は年表で、天主堂と使節との関係を見てみます。

<聖ポール天主堂(聖母教会)と天正遣欧使節>
1575年 現在の聖ポール天主堂の北に、教会建築される。「マードレ・デ・デウス(神の母)」と名付けられる
1578年 ヴァリニャーノ、マカオに到着
1579年 現在の聖ポール天主堂の場所に、新たな修道院が建てられる
1581年 1579年に建てられた修道院に、教会も設けられる
1582年 3月9日 使節マカオ到着、12月31日出帆
1584
~85年
マカオの教会や修道院では12人のイエズス会士がおり、200人の児童が読み書き・唱歌を学んでいる
1588年 8月11日 使節、ローマからの帰りにマカオ到着
『キリスト教子弟の教育』印刷
1589年 9月16日 使節の一員ジョルジェ・デ・ロヨラ、マカオにて逝去
『遣欧使節対話録』印刷
1590年 6月23日 使節、マカオを出帆
1592年 10月9日 ヴァリニャーノ、長崎を出帆。マカオへ
1594年 ヴァリニャーノ、丘にあるイエズス会の施設を2つに分け、一方の上長にロレンソ・メシア、他方の上長にドゥアルテ・デ・サンデを任命。サンデが受け持つ方の施設は新たな学校と修道院からなり、同年「コレジオ」に昇格
1595年 聖ポール天主堂火事
1598年 8月5日 ヴァリニャーノ、日本へ到着。日本教会の指導にあたる
1601年 聖ポール天主堂火事
伊東マンショ、中浦ジュリアン マカオへ留学
1602年 天主堂の再建はじまる
1603年 1月15日 ヴァリニャーノ、マカオへ向けて日本を去る
天主堂の竣工式が降誕祭前夜に執り行われる
1604年 伊東マンショ、中浦ジュリアン 日本へ帰国
1606年 1月20日 ヴァリニャーノ、マカオで逝去
1614年 11月7日 原マルチノ、コンスタンチーノ・ドラード、マカオに流刑
1620年 7月3日 ドラード、マカオで病死
1629年 10月23日 原マルチノ、マカオで病死
1637
~40年
聖ポール天主堂、このころ完成か
1835年 聖ポール天主堂、イエズス会学院(コレジオ)火事
※聖ポール天主堂の前壁のみ残る
1990
~95年
聖ポール天主堂遺跡の発掘修復作業

 これを見ると、使節が旅の往復で滞在した、当時の天主堂は燃えてしまっていることがわかります。1601年にはマンショとジュリアンがマカオに留学しますが、同じ年に火事になってますねー。日付けがわからないので2人が火事を目撃したかわかりませんが、どちらにしろ驚いたでしょうな。
 現在の遺跡と一番関連がありそうなのが、やはり埋葬地です。
 ヴァリニャーノもドラードもマルチノも天主堂の完成を見ないまま亡くなっていますが、主要な部分はできあがっていたようで、埋葬地の記録があります。
 まずはヴァリニャーノ。「主礼拝堂(Capella mor)の中央の、祭壇の福音書側(左側)の階段付近に葬られた」。「主礼拝堂」は上図(4)の中央祭壇がある一角でしょうか。現在の地下納骨堂にある花崗岩のお墓がヴァリニャーノのものと考えられています(この地下納骨堂、ヴァリニャーノのお墓+その他大勢の納骨場所という感じ。つまりメインはヴァリニャーノ)。
 次にマルチノです。「諸聖女の礼拝堂(Capella das virgens)内、祭壇の福音書側(左側)の傍ら、主祭壇に通じるアーチ付近に埋葬された」。なんかよくわかりませんが、消去法で上の見取り図の「(6)一万一千の貞女礼拝堂」内のようです。「主祭壇に通じるアーチ」というのは、諸聖女礼拝堂の中にまたアーチがあるのかと思いましたが、遺跡の写真を見ていたら上図(4)の祭壇に通じる出入り口部分のアーチ、と考えた方が自然かもしれないと思いなおしました。で、現地で撮ったその付近の写真です。

う〜〜ん…なんか石がゴロゴロしているだけにしか見えない…

 上から見るしかないので石がゴロゴロですが、横から見るときれいに積み上がっていたりして…。
 行ったときには勉強してなかったので何とも思いませんでしたが、このあたりに埋葬されたかと思うとドキドキですね〜。聖堂内に埋葬するって、どうやってるのかわかりませんが。
 主祭壇の近くや側廊にはお墓がたくさんあったようです。現在の地下納骨堂は、そこから出てきた遺骨をまとめて安置してあると思われます。
 ドラードについての記録は見つからなかったので、またあとで探してみます(^^;;
 最後に、聖ポール天主堂の内部の様子の記録です。「学院に属する教会の屋根はひときわ美しい丸天井で、…(中略)…天井には中国人の手になる見事な細工の木彫があって、巧みに金を塗り赤や青など絶妙な彩色が施され、方形に仕切られている。また、各々の方形の接合部には、幾重もの大きな薔薇や葉(の装飾)が次々と重なり、次第に小さくなって、ついにはすべてが柱頭の飾りで終わっている。もっとも大きいもので直径1ヤードほどあり、天井から下方へ1ヤード垂れ下がっている。」
 金と赤と青って…神社とかお寺にある装飾の色の組み合わせに似てますね。細かい装飾は和風もしくは中国風のようなものだったのかもしれません。このような装飾がいつ頃できあがったのかわかりませんが、こういう聖堂でマルチノやドラードが過ごしたと思うと、ワクワクしますね〜。

参考文献:東光博英『マカオの歴史−南蛮の光と影』大修館書店, 1998.

(2014.6.1 作成)


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