恋風旅路 >> 天正遣欧使節 >> 使節あれこれ >>(その4)マカオのコレジオ



使節あれこれ その4
マカオのコレジオ

 マカオに行ったら、コレジオの跡が残っていました。
 推測図を元に、使節が暮らした当時の様子を想像してみたいと思います。

コレジオ跡にある推測復元図 左の図をなんとなくトレースしました。本当はもっと縦長だと思われます

 現在は、聖ポール天主堂の前壁とコレジオ跡の間に大三巴斜巷という道がありますが、使節時代は聖ポール天主堂(聖母教会)の隣がすぐコレジオの敷地だったようです。

1834年に描かれた聖ポール天主堂の様子。使節の時代から200年以上経ってますが、石段のわきに建物があるのがわかります


<マカオのコレジオと天正遣欧使節>
1575年 現在の聖ポール天主堂の北に、教会建築される。「マードレ・デ・デウス(神の母)」と名付けられる
1578年 ヴァリニャーノ、マカオに到着
1579年 現在の聖ポール天主堂の場所に、新たな修道院が建てられる
1581年 1579年に建てられた修道院に、教会も設けられる
1582年 3月9日 使節マカオ到着、12月31日出帆
1584
~85年
マカオの教会や修道院では12人のイエズス会士がおり、200人の児童が読み書き・唱歌を学んでいる
1588年 8月11日 使節、ローマからの帰りにマカオ到着
『キリスト教子弟の教育』印刷
1589年 9月16日 使節の一員ジョルジェ・デ・ロヨラ、マカオにて逝去
『遣欧使節対話録』印刷
1590年 6月23日 使節、マカオを出帆
1592年 10月9日 ヴァリニャーノ、長崎を出帆。マカオへ
1594年 ヴァリニャーノ、丘にあるイエズス会の施設を2つに分け、一方の上長にロレンソ・メシア、他方の上長にドゥアルテ・デ・サンデを任命。サンデが受け持つ方の施設は新たな学校と修道院からなり、同年「コレジオ」に昇格
1598年 8月5日 ヴァリニャーノ、日本へ到着。日本教会の指導にあたる
1601年 聖ポール天主堂火事
伊東マンショ、中浦ジュリアン マカオへ留学
1602年 天主堂の再建はじまる
1603年 1月15日 ヴァリニャーノ、マカオへ向けて日本を去る
天主堂の竣工式が降誕祭前夜に執り行われる
※現在残っている前壁ができたのは1640年ごろと考えられている
1604年 伊東マンショ、中浦ジュリアン 日本へ帰国
1606年 1月20日 ヴァリニャーノ、マカオで逝去
1614年 11月7日 原マルチノ、コンスタンチーノ・ドラード、マカオに流刑
1620年 7月3日 ドラード、マカオで病死
1629年 10月23日 原マルチノ、マカオで病死
1835年 聖ポール天主堂、イエズス会学院(コレジオ)火事
※聖ポール天主堂の前壁のみ残る

 こうして見てみると、マカオかなり濃いですね!
 使節はローマへの往路でマカオに滞在、イエズス会の学院を宿舎としました。出帆まで日本語・ラテン文法・ローマ字の練習・西洋音楽などを学んだということです。
 復路では2年近く滞在し、この期間にロヨラが亡くなりました。しかし不幸ばかりではなく、おそらくヨーロッパから持ち帰った印刷機で印刷もしています。
 コレジオについては1579年に修道院が建てられ、(いつのまにか学校が加わって)そのまま1594年に「コレジオ」になったようです。19世紀に天主堂と一緒に燃えたみたいですが、今の遺跡は使節が使っていたものと考えてよさそうです(少なくとも晩年のマルチノやドラードはこのコレジオにいたでしょう。ワクワクしますね・・……(-。-) ボソッ)。
 次は現在の遺跡の様子です。

<コレジオ遺跡部分拡大>
※グレーの部分は当時の床などが残っているところ
(Q)と(R)以外は写真をクリックすると大きい画像が見られます

(A)「前庭」床のタイルが一部残っています (B)「小部屋のドア」
(C)「ひき臼石」丸いのがそうかな…??

(D)遺跡東側から聖ポール天主堂方面を臨む

(E)「コレジオの通路」 (F)「レンガ壁の跡」
(G)推定図付近からコレジオ遺跡を臨む (H)西側から遺跡を臨む
(I)遺跡西側から。石拡大 (J)遺跡西側から。(H)の少し右側
(K)「南翼廊下」 (L)東翼の壁の一部(真ん中の苔が生えているもの)

(M)東翼の壁の一部。(L)の反対側から撮影

(N)回廊部分と思われる場所 (O)「中央庭園への入口」
(P)「中央庭園と下水道の遺跡」
(Q)マカオ博物館前の広場 (R)当時はコレジオの敷地だったと思われる大三巴斜巷

 大きい遺跡は一部分しかないので、「ずいぶん狭いな」と最初は思ったのですが、推測図によると聖ポール天主堂のすぐ隣から現在のマカオ博物館前の広場も敷地の一部だったようなので、かなり広そうです。しかも1834年のイラストを見ると2階建っぽいですよね。
 建物はまったくないですが、ここで使節が勉強したり音楽の練習したりしてたんだなーと考えると、感慨深いものがあります(難しい言葉つかってますが、結局はミーハーです)

参考文献:東光博英『マカオの歴史−南蛮の光と影』大修館書店, 1998.

(2014.5.11 作成)


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